たまごビル健康講座                       平成27年9月12日

   東日本大震災チャリティーたまご会
    釜石の奇跡がめざすもの (小さい頃からの良い習慣)

         群馬大学理工学研究院 教授
         群馬大学広域首都圏防災研究センター長  
  
               片田 敏孝 先生

 
【四方 伸明 先生の司会】

   関西医科大学病理学部教授 
      四方 伸明 先生 

  の司会で始まりました。
 
 
【たまごビル 院長 石垣 邦彦 先生】


片田先生の素晴らしいところは自然に対する考え方にあります。自然は恵みをもたらすけれど災害ももたらします。自然に対して謙虚である必要があります。しかし、自然を畏れつつ精いっぱいの生きる努力をしましょう。
私たちは、“からだ”の“しくみ”をいかして健康で精いっぱい生きていきましょう。
片田先生は、鬼怒川の堤防の決壊などの件で、健康講座終了後、新幹線で東京へ行きの車中で取材を受け、今日午後7時30分のNHKスペシャルの生番組に出演されます。
 
 【片田 敏孝 先生】

石垣先生に、少し施術していただいて、からだの痛いところが、治ってしまいました。不思議な思いだとのことです。
片田先生は土木関係者でした。台風が来るなら堤防を作れ、ダムを作れと自然を押さえこむ事を考えます。しかし、それは無理なのです。時によって自然は大きな災害をもたらします。東日本大震災もそうです。
東日本大震災は自然の営みなのです。大きな津波が襲ってきました。それでは堤防が低かったのか、高い堤防を作って自然を押さえ込めれば良いのでしょうか。

    

それは、ちがうと思います。もちろんある程度の対応は必要ですが、それを超える部分には社会の対応、おだやかに災害をやりすごす知恵、自然に対する畏敬の念をもって、謙虚に生きていくことです。
全ての自然の営みに対応することはできないのです。自然を理解し精いっぱい生きていく姿勢をもつべきです。
 ■釜石の奇跡

釜石の子供たちが、高さ16メートルの津波、1.7キロメートル先まで走らないと高台にたどり着けないところを懸命に走りぬけました。
ハザードマップでは大丈夫とされていたところでした。先生方や、おじいちゃんは、大丈夫だからと言っていましたが、子供たちは教育されたとおり、精いっぱい逃げました。相手は自然だから何があるかわからないので精いっぱいのことをする事が大切です。

釜石では約1000人が亡くなって、防災としては失敗だったのです。しかし子供たちが一生懸命走る姿を見ておじいちゃんやおばあちゃんも逃げました。おじいちゃんやおばあちゃんもたくさん助かりました。
子供たちは小さい保育園の子供たちを抱き抱えて走ることもやってくれました。多くの命が失われましたが、釜石の子供たちが守った多くの命がありました。

 ■多発する自然災害

現在片田先生は、台風18号による鬼怒川の堤防決壊の災害の対応をしています。
地球温暖化の影響と言われますが、人間のやってきた長年の積み重ねによるところのしっぺ返しが来ている状況だと思われます。
鬼怒川の堤防の決壊では、大した台風ではなかったのですが、台風17号と18号の風が影響してたまたま大雨が降ってしまったことによります。偶発的に線状の降水帯ができて大変なことになってしまいました。
最近この様な事が多く発生しています。広島の土石流の災害もその一つです。
 
       図の赤い字が地象(地震など,大地に起こる現象)です
      青い字は地球温暖化の影響と言われています。

化石燃料を燃やし続けて、地球という大きなシステムに、部分的に負荷を与え続けてきたので、そのしっぺ返しを受けている状態です。海水温が非常に高くて膨大な水蒸気が上がって、台風などの風が日本に吹き付けます。
広島や、関東での災害はたまたま偶発的な状況で起こっているので、どこで起こってもおかしくないので、注意が必要です。

 東日本大震災があってから、バランスが崩れて日本のプレートが大きくずれてしまいました。現在はプレートのバランス補正に入っています。統計では20年ほどで南海トラフが動きます。富士山が噴火するなどがおこる可能性があり、警戒期にあります。
 
 
■釜石の防災

なぜ釜石で防災をしようとしたか、それは、釜石は津波の集中地域だからです。
太古の昔から釜石の市内だけで34の津波の碑があります。

太平洋プレートが一年で8センチ入り、100年で8メートルはいりこみます。これが限界となり、地震が起こります。
東日本大震災3.11から4年、次の地震にむかって進んでいます。

 
■34の碑

釜石に34の碑があります。



この碑を建てた明治三陸津波では、釜石の人口6500人のうち4000人が津波で亡くなっています。
家族を亡くし、家や田畑をなくした人たちが、なけなしのお金を出し合って、悲痛な思いで後世の人のために作った碑です。
しかし、どうして私たちはこの教訓を受け止めないのでしょうか、なぜ34も碑が合って、太古の時代から何度も被害を受けているのに、防災が文化になっていないのでしょうか。どうして、分かっているはずなのに毎回毎回被害が出るのでしょうか。

三陸(釜石)と和歌山(尾鷲)に行きました。
最初は大人に対する防災教育をやっていました。この教訓を知っていたのに、津波の被害が出れば、自分が一番後悔すると思ったからです。しかし、全然だめでした。防災意識の高い人しか来ない。本当に必要な人は来なかったのです。

 ■子供に聞いてみました

 子供に津波が来たら逃げるか聞いてみました。答えは「逃げない」でした。
 理由は、立派な堤防が出来た。じいちゃんが逃げない、おとうさんも逃げない。

この子供の命を奪うのは、おじいちゃん、おばあちゃんです。自分の背中で、「逃げなくていい」という常識を与えています。「立派な堤防が出来たから、逃げなくてもいい」と教えています。

この子に生きる力を与える、この子たちが懸命に逃げて自分の命を守りぬくような子になっていること、それはこの子を育む社会がそうなっていることなのです。学校も含め、そういう社会を作ることが目標です。

老人ホームで、「じいちゃんが逃げないから、孫も逃げないと言っている」と話をしました。
津波警報が出ても、いつも大したことが無かった。逃げなくても大丈夫だった。そして100回逃げて、最後の一回が「しまった」になるのです。「やっぱり逃げて良かった」にしなければならないのです。釜石の環境では、津波は絶対に起こりうる事です。

知識としては知っていても、やっていないのです。知識があっても人間はやらないのです。知識を理路整然と与えて何かさせようとする防災教育ではなく、この子供たちが自然に自分で判断してちゃんと逃げる、そういう社会の仕組みを作る事が本質だと思いました。
 ■東日本大震災

最初の5年は煙たがられました。「また津波と、うるさい人」と言われ続け、やっと2年かけて防災テキスト作成までこぎつけました。そして、防災教育を行って1年目で津波が来ました。ぎりぎり間に合ったのです。
釜石の子供たちは必死に逃げてくれました。
 

 ハザードマップの外側にあった小学校です。明治三陸津波でも津波が来なかったので安全と言われていた所です。
16メートルの津波が、鉄筋コンクリート3階建ての校舎を超えました。
知識としては分かっているはずなのですが、本当にこんなことが起こりうると分かっていたのか、そしてやれることはすべてやったか、疑問です。実際は、こういう事がありうるという知識を持っていただけだったのです。

 

津波はすべてをがれきにし、海に引き込んで跡形もなく持ち去りました。
遺体も残らない悲惨な状態です。
 ■子供たちの行動

地震が来た時、授業が終わってクラブ活動をしていた中学生たちは、校舎にいる子供たちに「津波が来るぞ、逃げるぞ」と叫び、隣の小学校にも逃げるように叫んだ。中学生は小学生の手を取り一緒に走って逃げました。



1.7キロメートル先の高台まで、泣きじゃくる小さな子に、「後ろを見ちゃダメ」と言って必死で走った。
途中の保育園から出てきた小さな子供を中学生が、抱きかかえて走りました。

 ■本当の防災教育

明治三陸地震の津波の碑。子供たちに碑を見せて、当時の人たちの思いを知らせました。
先人の思いはどうなるのかと問いかけました。



子供たちは先人の思いに答え、絶対に被害を出さない決意をしました。






中学生たちは先人の思いに答え、犠牲者を出さない運動を始めました。小学生と一緒に避難訓練を始めました。
津波の時、耐震補強をした小学校で、先生たちは校舎の上に居るよう指示しましたが、一緒に避難訓練をしていた中学生たちが必死で逃げるのを見た小学生が、一緒に逃げて助かりました。

中学生たちは高齢者や小さい子供のため、「助けられる人」から「助ける人」へ変わっていった。
最初はあきらめていた高齢者は、子供たちの思いに答え、自分たちが逃げなければ子供たちが助けに来て、一緒に死んでしまうという思いから、必死に逃げる練習を始めました。
結果は多くの高齢者が、避難が間に合わず、亡くなりました。しかし、彼らは必死に避難をしたのです。
そして、子供たちに助けられ、多くの高齢者が助かっています。多くの死者が出て、防災としては失敗だったのですが、その中で頑張って生き抜いた子供たちは褒められる存在です。

 ■防災の取り組み

防災は子供たちを育んでいくことが大切です。中学生が10年たつと市民になり地域の大人になります。もう10年たつと、自分が親となります。この防災を当たり前と思って行動している親に育まれた子供たちは、防災が当たり前の環境の中で育まれた子供たちです。防災の市民を作り、防災の文化を作るのです。

 ■てんでんこ

津波の時はてんでんばらばらに、逃げるという事です。
明治三陸津波の時、宮古市田老町では住民1859人が全滅しました。
家族が思いやり、助け合おうとした結果、全員が逃げられなかったのです。

東日本大震災の時、若者が高台まで逃げてきました。しかし、彼のじいちゃんが来ていないと知ります。
周りの人が止めるのを振り切って探しに行った若者は帰ってきませんでした。
また、母親が、近くにいた子供を懸命に探しましたが、見つかりません。
子供は、お兄ちゃんが高台へ連れて逃げていたのですが、母親は津波が来るので必死に子供を探して逃げ遅れ、亡くなりました。

人として、助けに行かなければならないので亡くなってしまいます。過去の被災者たちは、苦渋の決断を「津波てんでんこ」と伝えました。一人ひとりかってに逃げろという事です。
非常に奥が深い事です。助けに行かなければ身内が亡くなると分かっている。でも自分のせいではないのです。津波のせいなのです。

 

 子供たちに話しました。子供が津波に襲われるとき、親が自分だけ逃げられるのか。
爺さん婆さんが居るのに、自分だけ逃げられるのか。
出来るわけがない事です。出来っこないことを言っているのです。

しかし、「津波てんでんこ」かってに逃げろとはどういうことなのでしょうか。
それを子供たちに話しました。

小さい子どもたちは、お母さんが助けに来てくれると思って待っていたら、逃げ遅れてお母さんと一緒に津波にのみ込まれます。
お母さんは、絶対に助けに来るのです。そして、逃げ遅れて死んでしまうのです。

だから、自分は絶対に自分で逃げなければならないのです。お母さんが、「あの子は絶対に自分で逃げている」と信じて逃げることで、お母さんと自分が助かるのです。お母さんを助けたければ、必ず自分で逃げるという事をお母さんに信じ込ませなければならないのです。そして、自分で逃げなければならないのです。

防災とは人間のきずなを断ちきる事ではなく、自分たちが精いっぱい出来ることをすることで、
みんなが助かる事なのです。
 

片田先生は、子供たちに宿題を与えました。
家でお父さんやお母さんと、地震の時の津波からどう逃げるかという事を話すのです。

子供たちは、自分たちがどこにいた時、どこに逃げるかを詳しく話し合いました。そして、自分たちがちゃんと逃げることで、助けに行かないで、みんなが助かる事を話し合いました。これが「津波てんでんこ」なのです。
片田先生は人間を見直して、そうして防災を再構築したいと考えています。
 
■質疑応答

津波の碑について質問がありました
【説明】
 碑の津波デジタル ライブラリ を作っています。こんなに碑があるのに、実際は何も役に立っていないのです。
 阪神淡路大震災の現地の子供に話を聞いても、地震の事を知りません。伝える事は難しいのです。

 伝えきれていないのです。
 期間が過ぎれば、伝える事は非常に難しいのです。

 釜石の34の碑がどうして語り次げられなかったのか考え、行動して次の世代に示していく。
 良い習慣の中に子供を育むことが大切です。

 片田先生の子供たちへの教え方は、心のうちからやるんだという心を作ることです。
 知識の教育から取り組む姿勢への変更。共感を生むコミニケーションが相手を動かすのです。
 小さい頃からの良い習慣です。


【たまごビル 院長 石垣 邦彦 先生】

 今回の片田教授のお話しをうかがい、さらに意を強くしました。11月14日(土)は拉致問題ですが、
防災教育も、拉致問題も、そして「からだ」の「しくみ」を生かした「食べ方教育」も共通する姿勢があります。
それは、家族の信頼を基礎に・日々の生活を通じて・自分の「いのち」は自分で守ることです。
みなさんには、この輪=運動を広げていっていただきたいと思います。